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東京都葛飾区の歴史
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 本堂

所在地 葛飾区東新小岩7-8-2

真言宗
 八幡山 来迎院 上品寺じょうほんじ

 閻魔堂

 境内には『閻魔大王坐像』があります。

 八幡神社

  
大子堂
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 閻魔堂

所在地 葛飾区東新小岩7-8-2 (上品寺)

 当寺は、新義真言宗にして、八幡山来迎院という。
 この閻魔堂に安置する閻魔大王坐像は、高さ206cmあり、かって江戸16閻魔の一つとして栄え、区内最大のものである。
 閻魔大王は、地獄に住み18の将良と8万の獄卒を従え、死して地獄に墜ちくる人間の生前の善悪を正し、罪あるものには、苦しみを与える冥王として信仰する人が多い。
 当寺の閻魔は、江戸中期にもっとも盛んに信仰され、昭和47年(1972)に閻魔堂が新築され現在に至っている。
  葛飾区観光協会


                吉田穂積制作 出川三男監修

所在地 葛飾区柴又4-8

 フーテンの寅像
寅さんは損ばかりしながら生きている
江戸っ子とはそういうものだと
別に後悔もしていない
人一倍他人には親切で家族思いで金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
そんな無欲で気持ちのいい男なのになぜかみんなに馬鹿にされる
もう二度と故郷になんか帰るものかと哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことをいったい何十辺くり返したことだろう
でも故郷は恋しい
変わることのない愛情で自分を守ってくれる
妹のさくらが可哀想でならない
―ごめんよさくら いつかはきっと偉い兄貴になるからな―
車寅次郎はそう心に念じつつ故郷柴又の町をふり返るのである
 1999年8月 山田洋次



昭和44年(1969)8月第1作「男はつらいよ」が公開されてから平成8年(1996)正月の「男はつらいよ・寅次郎 紅の花」までの48作は世界映画史上に突出したシリーズ映画です
この輝かしい積みかさねは、山田洋次監督とスタッフ及び渥美清さんほかの出演者によることは勿論ですが、なんといってもこの映画を全国のファンが心から愛してくれたからでした
そして特にここ葛飾柴又の皆さんには温い人情と熱い思いで映画「男はつらいよ」と寅さんを支えていただきました
このたび由縁の地に全国のファンの皆様のお志により像が建立されましたことはわが社にとって大変嬉しいことです
心より御礼を申し上げます
 平成11年(1999)8月 松竹株式会社

「男はつらいよ シリーズ」は平成8年(1996)8月主演の渥美清さんが急逝されたことで終わりを告げました
私たちはこの映画を偲んで寅さんの像を建立することを思い立ち百円募金を計画したところ、全国のファンの方がこころよく参加してくださいました
その大勢の方たち一人ずつに名前を書いていただきその芳名録をこの像の台座の中に収めてあります
毎月10日を「寅さんの日」と定め、故郷柴又を愛してやまなかった私たちの寅さんを、いつまでも大切にお守りさせていただきます
 柴又 神明会


所在地 葛飾区柴又7-3-9

 映画の碑
私 生まれも育ちも葛飾柴又です
帝釈天で産湯をつかい 姓は車 名は寅次郎
人呼んで フーテンの寅と発します  
   山田洋次

二天門

所在地 葛飾区柴又7-10-3

日蓮宗
 経栄山 題経寺 (柴又帝釈天)



葛飾区登録有形文化財
 柴又帝釈天 題経寺・諸堂内
  及び 二天門 建築彫刻一括

     平成4年(1992)2月5日登録

本堂

 帝釈堂、祖師堂、二天門、には多くの木彫により建築浮彫装飾が施されています。特に帝釈堂は設計林門作、棟梁坂田留吉の指揮のもとに作られました。内陣外側の胴羽目彫刻10枚は法華経説話を題材にして、加藤寅之助・金子光清・木嶋江運・石川信光・横谷光一・石川銀次朗・加府藤正一・山本一芳・今関光次・小林直光等の彫刻師により制作されました。大正12年(1923)9月、それぞれの彫刻師のもとに運ばれていた欅の彫刻材は、関東大震災によって、すべて焼失しました。その後欅材を全国に求め、発願から十数年の歳月を費やし、10枚の胴羽目彫刻は昭和9年(1934)に完成しました。
 彫刻の下絵は高山栄州が描いています。胴羽目の寸法はそれぞれ縦1.27m、横2.27m、厚さ20cm襖1枚の大きさです。
 他堂や二天門の内外に、施された彫刻も、同じように貴重なものです。
 葛飾区教育委員会
 
帝釈天

  題経寺柴又七福神  毘沙門天

 甲冑を着けた毘沙門天は、インドの神様で右手に宝棒(鉾)を持ち、左手に宝塔を捧げ、足下に悪業煩悩の天邪鬼をふみつけている。仏教の教えを守るとともに、招福・財福を授けてくれる神様である。
 また、別称多聞天といい、四天王のひとりとして、北方守護神として祀られている。
葛飾区 葛飾区観光協会


大鐘楼
釈迦堂

 

 境内には『瑞龍松』、『浄行菩薩』、『帝釈天出現由来碑』、『大客殿』、『草木供養之碑』、『人生劇場 青春立志の碑』、『水原秋桜子句碑』、『納札碑』があります。
 また帝釈天参道には『映画の碑』、『帝釈天王安置』があります。



所在地 葛飾区柴又7-10-3 (柴又帝釈天 題経寺)

 浄行菩薩
久遠の本佛の御使として大地の底より涌き出て来られた四人の菩薩の一方です。地水火風の四大の内、水大を現わすこの菩薩は、この世の中を真に浄化し、ここに住む人々の罪や穢を洗い清めて下さる方です。
 帝釈天


所在地 葛飾区柴又7-10-3 (柴又帝釈天 題経寺)

人生劇場 青春立志の碑

   遺す言葉
 死生命ありだ。くよくよすることは一つもない。お前も父の血をうけついでいるのだから、心は弱く、涙にもろいかも知れぬが、人生に対する抵抗力だけは持っているだろう。あとは、千変万化だ。運命の神様はときどき妙な、いたずらをする。しかし、そこで、くじけるな。くじけたら最後だ。堂々とゆけ。よしんば、中道にして倒れたところで、いいではないか。永生は人間にゆるされてはいない。父は地獄へゆくか極楽へゆくか知らぬが、見ろよ、高い山から谷底見れば瓜やなすびの花ざかりだ。父は爛々たる目を輝かして、大地の底から、お前の前途を見まもっていてやるぞ。
  尾崎士郎


所在地 葛飾区柴又7-10-3 (柴又帝釈天 題経寺)

木々ぬらし 石うかちつひに 春の海
             秋桜子


所在地 葛飾区柴又7-10-3 (柴又帝釈天 題経寺)

  東京造園業組合創立60周年記念 草木供養之碑

人類は平和で緑豊かな環境で暮らしたいものです。社会に見られる都市開発が日々と進み快適さ、利便性を求め、実益を優先して様々な建設工事が激増して居ります。此の事は其れなりに意義あるもので御座居ますが、其の都度多くの草木が失われ、やがて地球温暖化に繋がってしまいます。自然環境は守りたいものです。土の恵みを伝え、植樹する時も自分の心に木を植える事と思い、草木を愛し、現在ある緑の保全と、小さな緑を広げ緑に覆われた地球を創り出したいものです。祖の様な事を念頭において、建設事業に携わる東京造園業組合員一同は、草木に思いを起こし、感謝をこめて、心よりの草木供養之碑建立を決意致しました。なお僭越ですが、社会の皆々様にお呼びかけをして、御一緒に手を取り合って草木の大切さを語り合える場所にもしたいと思います。幸いにも東京都知事石原慎太郎様より題字の揮毫を戴き、その上柴又帝釈天題経寺住職望月日翔様、望月洋靖様の御厚情により、多年念願であった、緑を大切にするための草木供養之碑建立を達成する事が出来ました。
 平成16年(2004)6月18日 東京造園業組合


所在地 葛飾区柴又7-10-3 (柴又帝釈天 題経寺)

東京都選定歴史的建造物
 柴又帝釈天題経寺大客殿


                              邃渓園
     
  設計者 大工棟梁 鈴木源治朗
  建築年 昭和4年(1929)

 帝釈天題経寺は寛永年間に創設された日蓮宗の寺院で、境内には、文化・文政の頃の釈迦堂をはじめ、明治以降に建てられた諸堂が多く現存する。
 北側の和風庭園( 邃渓園)に面した大客殿は、信徒の接待所として設計された建物で昭和4年(1929)に完成した。この年には釈迦堂拝殿の造営も行われている。
 建物は木造、平屋建、総檜造りで、屋根は入母屋、桟瓦葺き。ガラス障子の広縁を巡らし、緑の正面中央に張り出し部分を設けているところが外観上の特徴である。建物内部は四部屋からなる書院造りで、一番奥の頂経の間が上段の間である。天井には杉の一枚板を鏡板に用い、折上げ部分に漆を塗っている。また、床の間には、近江の伊吹山山麓にあった『日本一』と言われる大南天の床柱がある。
 東京都生活文化局


所在地 葛飾区柴又7-10-3 (柴又帝釈天 題経寺)

葛飾区指定有形民俗文化財
 帝釈天出現由来碑
     昭和57年(1982)2月13日指定

 この碑は、安永8年(1779)題経寺本堂改修のとき発見した日蓮聖人自刻の帝釈天坂本尊を後世に伝えるため、弘化2年(1845)俳人鈴木松什および檀徒石渡忠右衛門等が協力し、その由来を記し、併せて帝釈天の功徳を述べている。
 碑の総高1.48メートル、撰文は宮澤雉神遊、書は萩原翬、刻者は窪世昌である。題経寺縁起の整ったものは、明治29年(1896)に作成されたが、碑は、それ以前における由緒資料として貴重である。
 葛飾区教育委員会


所在地 葛飾区柴又7

 帝釈天参道
柴又帝釈天(経栄山題経寺)は寛永6年(1629)日忠上人の開創と伝えられていますが、出土品などからその起源は室町時代(1338~1573)にまでさかのぼるともいわれています。日蓮上人自刻といわれる帝釈天王像の板仏を本尊とすることから柴又帝釈天といわれるようになりました。この本尊は安永8年(1779)本堂改築の際に棟木の上から発見され、その日が庚申の日であったことから、以後庚申の日を縁日としています。



「十二支」「法華経説話彫刻」等彫刻の寺としても名高く、映画「男はつらいよ」の舞台としても全国的に知られ、200m程の参道は下町風情を求める若者や外国人観光客の姿で賑わっています。


     
Shibamata Taisyakuten
Once thought to have been fouded by the priest Nitchu in 1629,archaeological evidence indicates that it may date back to the Muromachi Period (1338-1573).Popular movies have been filmed here and as such it is often frequented with visitors.



所在地 葛飾区柴又3-30-24





葛飾区指定無形民俗文化財
 柴又八幡神社の神獅子
     昭和53年(1978)2月13日指定

 昔から疫病除けの信仰と結び付いている獅子舞の神事です。
 神獅子の由来は定かではありませんが、三体の獅子頭は柴又村の名主斉藤家の家宝として代々秘蔵とされていました。ところが獅子が夜な夜な抜け出して、同家の米蔵で米を食い荒すため、主人は怒って獅子頭を江戸川へ投げ捨てました。しかし不思議なことに獅子頭は急流をさかのぼり土手にあがってきたので、村人たちは大変驚き獅子頭を八幡神社に奉納したと伝えられています。
 獅子舞の演目は「御前舞」「花がかり」など全部で九つになります。
 都内の他の獅子舞の演目とくらべて「御前舞」のように他ではみられないものがあり、また猿の介添、花笠の万灯持ち、ささらをすらないこと、庭が板敷であることなど他とは系統を異にする獅子舞として注目に値します。
 葛飾区教育委員会



 境内には『柴又用水の碑』、『柴又勧農事績碑』、『古墳石室』があります。



所在地 葛飾区柴又3-30-24 (柴又八幡神社)

葛飾区指定史跡
 古墳石室
     昭和51年(1976)3月6日登録
 
 八幡神社の社殿裏手に古墳の石組らしきものが露呈していたことから、いつのころからか古墳ではないかといわれてきました。
 昭和40年(1965)から何度も調査を行った結果、今の社殿を中心として直径20mから30mの規模を有する円墳であることがわかり、社殿裏手の石組は、遺体を安置する石室であることが判明しました。古墳の周りには溝が掘られ、円筒埴輪や人物や馬などの形象埴輪がめぐらされていたこともわかりました。出土した遺物は、埴輪のほか直刀・馬具・鉄鏃・須恵器などがあり、出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)に構築されたものと考えられます。平成14年(2002)、この古墳の周りにはりめぐらされていた溝から「寅さん埴輪」が出土しました。
 東京低地では石室を伴う古墳は本例のみで、この地域での古墳文化を研究するうえで貴重な考古学資料です。
  葛飾区教育委員会


所在地 葛飾区柴又3-30-24 (柴又八幡神社)

葛飾区指定有形民俗文化財
 柴又勧農事績碑
     昭和57年(1982)2月13日登録

 天明年間(1781~1788)あいつぐ飢饉や洪水、天災によって当時の農民の生活は窮状を極め、各地に百姓一揆がおこりました。ここ柴又村でも貧しさのため村を捨てるものも多く、田畑は荒れてきました。名主の七郎右衛門は他の村役人と図り柴又村の人々に質素倹約、勧農を守らせ、荒れ地改良を進めるなど村の復興に努めました。これに対して代官小野田三郎右衛門は寛政10年(1798)名主の七郎右衛門に褒状と銀10枚を与え、他の村役人や村人へもそれぞれ褒米を与えました。このことがあってから30年近くたった文政9年(1826)村役の子孫、村人達は先祖の努力と功績をたたえ後の世の教訓とするために先祖の事績を記した柴又勧農事績碑(柴股邑碑記)を建てました。この碑は江戸時代後期の葛飾区域の実情、寛政改革期の幕府の農政方針などを知ることのできる貴重な資料です。
 葛飾区教育委員会


所在地 葛飾区柴又3-30-24 (柴又八幡神社)

葛飾区登録有形文化財
 柴又用水の碑
     平成2年(1990)3月19日登録

 根府川遺志の不整形板石碑で、明治6年(1873)銘の訓導(旧制小学校教員)橘田春湖による名文が刻まれています。
 銘文によると柴又は土地がやや高く、昔から水の利用に苦労が絶えませんでしたが、天保6年(1835)に鈴木幸七の手によって用水路が引かれ、窮状が克服されたことがわかります。さらにこの事業の結果、堤防も堅固にされ、洪水も防がれました。
 この碑は鈴木幸七にたいする顕彰碑であると同時に、明治初年(1868)における当地域の農工水利開発の由来を示す点でも注目すべき記念碑です。
 東京都葛飾区教育委員会


所在地 葛飾区柴又7-19-32

葛飾区登録有形文化財
 山本亭 附 庭園
     平成21年(2009)3月17日登録



 大正末期から昭和初期に建築された和洋折衷の建物と純和風の庭園とが調和したもので、同時代に建築された建物等が消失していくなかで葛飾区のみならず都内においても、日本の建築史を知るうえで貴重な文化遺産です。
 建物は、木造2階建て及び土蔵・地下防空壕・長屋門からなり、伝統的な書院造を骨子として洋風建築の要素を取り込み、随所に近代和風建築の特徴を有しています。また、庭園は、縁先の近くに池泉を背後には緑濃い植え込みと築山を設け、滝を配すなど書院造の庭園を基本としてもので、昭和初期における庭園を現在まで残しています。
 葛飾区教育委員会



この建物は、地元縁の山本工場(カメラ部品製造)の創立者である山本栄之助翁の自宅でした。
関東大震災後、当地に移り住み、以後4代にわたって使われていたものを、昭和63年(1988)に葛飾区が取得し、平成3年(1991)4月から一般に公開しました。
建物は、1階400㎡、2階50㎡の木造瓦葺き2階建てで、地下室、土蔵、長屋門なども備え、大正5年(1916)から昭和5年(1930)の間に数回にわたる増改築を重ね、現在の姿となりました。
伝統的な書院造りと洋風建築を複合した和洋折衷の建物と、純和風の庭園とが見事な調和を保っており、その文化的価値は、国内はもとより海外においても高く評価されています。



Yamamoto-tei was built around the end of the Taisyo period and the beginning of the Showa period,thus besutifully blending the Japanese style with that of the Western.The site consists often expansive one-story sukiya-style home and its surrounding garden.


                   (写真右)防空壕跡


所在地 葛飾区柴又7-18先

 矢切の渡し
元和2年(1616)、幕府は利根川水系河川の街道筋の重要地点15ヵ所を定船場として指定、それ以外の地点での渡河を禁止しました。その1つが矢切の渡しで、この付近を通る国分道に架かる渡しで、主に近郷の農民が対岸の農耕地へ渡るために利用していました。現在、都内に残る唯一の渡し場で、今も昔ながらの手漕ぎの和船が対岸の松戸市下矢切との間を往復しています。伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となり、ヒット曲「矢切の渡し」を生んだ地としても有名です。
柴又公園内にある山本亭は、書院づくりの庭園と和洋折衷の建物が見事な調和を見せる大正末期の特色を残す邸宅です。



                 Yagiri Ferry(Yagiri-no-watashi)
The Yagiri Ferry was started by the Edo Bakufu gobernment at the beginning of the 17th Century,and was used by the local farmers to get to their on the other side of the river.It is the only remaining ferry service still operating in the metropolitan area.



 矢切の渡し付近の江戸川両岸は、戦国時代、小田原北条氏と安房の里見氏が、一大合戦を交えた古戦場(国府台合戦こうのだいかっせん)である。


所在地 葛飾区柴又7-18先

 水原秋櫻子(水原秋桜子)句碑
   葛飾や桃の籬(まがき)し水田べり

 水原秋櫻子先生(明治25年〔1892〕~昭和56年〔1981〕)の作、先生は東京神田の生まれ。はじめ高浜虚子に師事したが、やがて「ホトトギス」を去り昭和6年(1931)から「馬酔木(あしび)」を主宰した。
 葛飾の自然をこよなく愛ししばしば訪れて、世に「葛飾調」といわれる多くの作品を残した。
 この句は大正15年(1926)の作。対岸の市川真間あたりの風景をよんだもので「葛飾調」の代表作のひとつ。その頃の水郷葛飾の春の田園の美しさを流麗典雅の響きでうたっている。
 昭和62年(1987)3月 葛飾区長 小日向毅夫


所在地 葛飾区柴又5-8

葛飾区指定有形文化財
 浅間山噴火川流溺死者供養碑
     昭和52年(1977)3月19日指定

 天明3年(1783)7月5日から8日にかけて信州浅間山が大爆発を起こし、関東地方一帯は大きな被害を受けました。
 利根川上流の吾妻川では山津波と降灰でできたダムが決壊し、下流は大洪水となり、死者2000余人、埋没戸数1800戸に及びました。特に利根川、江戸川流域の水害は大きく、最下流にあたる当地域も同様で上流からの川流死者も少なからず漂着しました。
 この碑は、柴又村の人々がその供養のために建てたもので、史上まれにみる大災害に対処した当時の様子を伝えています。
・材質 石材 
・大きさ(台石含まず) 高153cm 幅23cm
  葛飾区教育委員会


所在地 葛飾区鎌倉3-28

 佐倉街道(さくらみち)は、かつて江戸から佐倉に通じる街道として栄えていました。
 日本橋から葛飾区の新宿までは水戸街道と共通路線を通り、新宿の町はずれから分かれ、上小岩村(江戸川区)をぬけ、江戸川を渡しで越え、下総の村々を経て佐倉に達していました。東海道等の五街道の匹敵する程の重要な道でありました。
 当時、この佐倉街道を通行した大名は下総佐倉藩の堀田氏をはじめ房総方面の大名あわせて十数藩に及んだといいます。
 なお、この街道は江戸中期以降、江戸から成田さんや千葉寺に参詣する大勢の旅人があったので成田千葉寺道(なりたちばでらみち)とも呼ばれていました。
 現在は柴又七福神めぐりのコースとしても利用され、また防災非難広場である江戸川河川敷へのルートに指定もされています。


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